これは、遠い世界の物語。
毎晩、食べることができる幸せに感謝し、
安らかに眠れることに祈りを捧げる。
歌と踊りを通じて神の御心を知り、
その恵みとともに生きる人々。
そんな、小さな村のお話。
その村に、一人の少女がいた。
少女は歌うことが大好きだった。
生まれ持った歌の才能に恵まれ、
その歌声は人々の心を惹きつけた。
いつしか少女は、歌い手になることを夢見るようになった。
自ら望んで選んだ道。
けれど、才能だけでは越えられない壁があった。
少女は、努力することが嫌いだった。
日々の鍛錬を重ねる仲間たち。
少しずつ力をつけ、前へと進んでゆく友人たち。
かつては自分の後ろにいたはずの者たちが、
一人、また一人と追い越してゆく。
焦りは、やがて苦しみへと変わっていった。
自分で選んだ道であるはずなのに。
大好きだった歌が、
いつしか少女の心を追い詰めるものになっていた。
そして、ついに少女は、
ある伝承に心を奪われる。
堕落の泉。
そこに身を委ねた者は、
あらゆる苦痛から解き放たれるという。
少女は、その甘い誘いに抗えなかった。
そして――
自ら、その泉へと身を投げた。
目覚めた先に広がっていたのは、
まるで楽園のような世界だった。
そこには、苦しい努力も、
誰かと競い合う日々もなかった。
大好きな歌を歌い、
心のままに踊り、
美味しいものを食べ、酒を酌み交わす。
辛いダイエットも、厳しい鍛錬もない。
ただ、好きなことだけをして生きていける世界。
もともと歌うことが大好きだった少女は、
あっという間に酒場の人気者となった。
誰もが彼女の歌声を求め、
その笑顔に魅了された。
少女は、酒場のヒロインとなった。
それは、かつて夢見た以上に自由で、
何不自由のない日々だった。
――そのはずだった。
けれど。
どれほど歌っても、
どれほど喝采を浴びても、
少女の心は満たされなかった。
何かが足りない。
何を手に入れても埋まらない、
不思議な空虚さだけが残っていた。
ある夜、少女は夢を見た。
そこに現れたのは、
かつて共に歌を学び、互いを磨き合った友だった。
苦しくて、逃げ出したくなる日もあった。
思うように歌えず、
悔しさに涙したこともあった。
それでも、共に笑い、
励まし合い、
一つの歌に想いを込めた日々。
あの頃は、確かに満たされていた。
少女は、ようやく思い出した。
自分が本当に求めていたものを。
ただ歌いたかったのではない。
歌に想いを乗せて、誰かに伝えたかったのだ。
自分の歌を聴いて、
誰かが笑顔になってくれること。
悲しみに沈む誰かの心を、
ほんの少しでも軽くできること。
誰かに必要とされ、
誰かの支えになれること。
それこそが、少女の本当の願いだった。
少女は、元いた世界へ戻ろうとした。
もう一度、あの仲間たちと歩みたい。
もう一度、本当の歌い手を目指したい。
しかし、その願いは叶わなかった。
一度捨てた世界へ、
再び戻ることはできなかったのである。
それでも。
少女には、どうしても諦められない想いがあった。
誰かの心に届く歌を歌いたい。
誰かに必要とされる存在になりたい。
誰かの支えになりたい。
その願いだけは、決して手放すことができなかった。
やがて、その声は堕落の泉の主へと届いた。
泉の主は、少女の願いを聞き届けた。
ただし、新たな世界へ旅立つためには、
自らが堕落に身を委ねていた時間と向き合わなければならない。
逃げ続けてきた苦しみを受け入れ、
失ったものの重さを知り、
それでもなお前へ進むこと。
少女には、厳しい試練が与えられた。
それは、かつての彼女ならば、
決して耐えられなかったであろう苦しみだった。
けれど、今度は逃げなかった。
歌に込めたい想いがあった。
届けたい願いがあった。
誰かの支えになりたいという、
決して消えることのない祈りがあった。
そして少女は、長く苦しい試練を乗り越えた。
ついに、新たな世界へ羽ばたく時が訪れた。
――はずだった。
少女の歌には、
人の心を救う力があった。
しかし、その魅力は同時に、
人の心を惑わせる力でもあった。
堕落の世界で歌い続けた日々。
少女の歌声に魅了された者たちは、
彼女が去ることを望まなかった。
まだ、ここで歌ってほしい。
もっと、その歌声を聴いていたい。
どうか、行かないでほしい。
その想いは、少女を引き留める力となった。
そして、堕落の世界からの干渉が、
新たな世界へ向かう転生の儀を妨害した。
本来、少女が授かるはずだった新たな名。
奏恋心(カナデココ)。
その一つであるはずの心は、
二つに引き裂かれてしまった。
一つは、恋(レン)。
女性としての魅力を強く宿し、
人々を惹きつける心。
もう一つは、心(イノリ)。
人を慈しみ、
傷ついた心を癒す力を強く宿した心。
こうして少女は、
引き裂かれた二つの人格を一つの身体に宿し、
新たな世界へと転生を果たした。
転生は、確かになされた。
しかし、それは決して、
手放しで喜べるものではなかった。
新たな世界でも、
きっと大きな試練が彼女を待ち受けているだろう。
数え切れない出会いと別れ。
喜びも、悲しみも。
時に傷つき、時に支えられながら、
二つに分かたれた心は磨かれてゆく。
いつの日か、本当の意味での歌い手となるために。
自分の歌で、誰かの心を支えられる存在となるために。
彼女は、歩み続ける。
その先に待つ、まだ見ぬ未来へ――。
(詳細は異世界乱舞転生の儀小冊子をご覧ください)



